Prisoners’ Road-囚人道路

―不可視化された不在の囚人道路を撮るー  「不可視化」されて消えてしまった囚人道路を写真として残すことは、今はもうできない。残されたかすかな痕跡を追ってみても、かつては存在していたものの断片を可視化できるだけである。それはすべてが終わってしまっていて表現されえないことで、ここで作家ができることは、かつてあったあるがままの囚人道路を裏切らないために、何も表現しないことなのかもしれない。 何処にでもある北海道の雑木林の中に、「不可視化」された不在の「囚人道路」を「見る」。ここでこの「見る」ということ...

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Roadside Lights I

14年前の吹雪の夜に車を走らせていた。ホワイトアウトで自分のいる場所さえわからなくなっていた時、いつも見慣れた自販機の明かりで何処にいるのかを知るという経験をした。それ以来、自販機は私にとって特別な存在となり、世の中を見る窓となった。 路上にぽつんと佇む自販機の姿は孤独である。しかしこの景色は日本では当たり前で誰も気に留めることは無い、そんな自販機の姿に私は現代人を重ね合わせた。自販機たちは雨の日も雪の日もたたずみ、ひたすらお客さんを待ち続けている。その姿は、私の心につきささり、それは過去の失わ...

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Being There

自販機は日本じゅう至る所にある。 都市はもちろん、誰が買うのと思えるような山間部や最果ての岬にも自販機はある。なにより特別特定の場所というのではなく、なんでもない道端から個人の家の軒先にまで自販機は置かれている。もはや自販機は日本という国を象徴する最もありふれた風景のひとつといっても過言ではないだろう。しかし、それが日本独特のものであることに気づいている人は意外と少ないのではないだろうか。 とはいえ、2011年の東日本大震災の時、原発事故が起こり、節電が叫ばれ、無駄なものとして一番先に挙げられたの...

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Railroad crossing

ある時、私は、閉ざした踏切の前に立ち、ふと考えた。 踏切は、どこにでもあるありふれた風景だ。そして、誰もが一度は立ち止まったことのある場所なのだ。 遮断機が降り、警告音が鳴る。 信号さえない最北のまちで、そこで唯一、私が、立ち止まったのも、踏切であった。 幼い日の思い出と、どこかのんびりした踏切の音。そのイメージは、今も記憶の中に強く残っている。 鉄道は旅を思いおこさせ、人生をも連想させる。 私たちは、長い人生の中で、幾度となく立ち止まっては、過ぎた日々を振り返えり、立ち止まっては、未来に思いを巡...

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Identity as Uygur

Where is the identity as Uygur heading to? This question always comes up to my mind when I visit Xinjiang Uygur Autonomous Region where everything is rapidly changing since my first visit. In elementary schools, Uygur children are now studying in Chinese, not in their own language anymore. They all sing Chinese songs and use Chinese textbooks. This area was once known as a frontier but now there are many streets lined with buildings. Old town becomes a tourist spot. To think about this situat...

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