作曲家の武満徹がジョン・ケージの音楽を指してこのような言葉を残している“黙示は未分である、それだからそれは生き物だ。それは、さまざまの貌をしている。そして、読み取る人によってさまざまに現る”。この言葉を私の写真作品に置き換えてみると、具象としての“自販機のある風景”からさまざまな観覧者の解釈を経て、抽象へと向かい、未分としての写真の因習から自由な世界を獲得することを期待するものである。

“自販機のある風景”との出会いは私が日本最北の街、稚内で暮らしていたことから始まる。最北の冬は過酷で雪が下から降ってくると言われるような猛烈なブリザードに時々見舞われる。このような場面で車の運転をしていた私は、自分が今どこにいるのかさえわからなくなっていた。そんな時、見慣れた自販機の明かりでようやく自分が今どこにいるのかを知り安堵したという経験から、自販機が特別な存在となった。“自販機のある風景”は日本においては日常である。主に飲料水の自販機ではあるが街の中や郊外などでも普通に見かける光景となっている。これは日本が治安が良いという証でもあり、欧米ではあり得ない光景であると言われている。この景色から見えてくるのは、性善説が主体となった日本の文化があり、人知れずとも、誰かのために働くという価値観が根付く風土があると考える。ここでは自販機が人間の鑑として機能し、血の通っていない機械を信頼するというモラルが成立し、自販機はある意味パートナーとして考えることが出来る。多分この感覚は神を絶対とする欧米にはあまりない日本独特の価値観ではないだろうか。このようなロボット(機械)対人間としての西洋と日本(東洋)との違いは、1927年ドイツ映画の“メトロポリス”と日本映画の“鉄腕アトム”を比べるとよくわかる、“メトロポリス”ではロボット(機械)は人間と対立するものであり、“鉄腕アトム”ではロボット(機械)は友人であった。

このように“自販機のある風景”はいろいろな解釈や要素を容認するが、私がこのプロジェクトを続けて行く原点となっているのは、雪夜に輝く自販機だと考えている。それは出自からくるものであると最近感じていて、1970年代にトポフィリアという概念を提唱したアメリカの地理学者イーフー・トゥアンも同じことを言っている。トポフェリアとは人間は出自から一生逃れることは出来ずに、何かしらの影響を受け続けるという考えで、実際、私が子供の頃受けた体験は、無意識のうちに作品に反映されていることにプロジェクトを10年以上続けていてようやく気がついた。子供の頃の記憶では、断熱もされていない家などでの冬は過酷な生活体験であり、そこで見た景色こそ美しいというある意味矛盾を含んだ経験であった。それは、吹雪で目の前に雪の壁が出来、周りが全て別の世界になる景色で、荒涼美とでも言い表したら良いだろうか。その様な体験から、雪の夜の撮影は私にとり過去への旅であり、記憶や体験の再生ともなって、自身のアイデンティティーにも連なっている。
雪に埋もれていてもなおも輝き続けている自販機に、人間を超えるモラルを感じる。過酷な環境で働き続けている機械には、人間の甘ったるいレベルのモラルなど通用しないからである。自販機は機械なので絶望などしない、そして雪に埋もれていても、なおも輝く姿に希望が見えてくる。
このように、“自販機のある風景”から見えてくる景色や解釈は様々で、それは観賞者の経験や体験と結びつくことにより、さらに新しい価値を生成できるのではないかと考えている。その意味でも“自販機のある風景”は、写真作品であるうちは、常に未分な黙示でありたいと考えている。