Prisoners’ Road-囚人道路

―不可視化された不在の囚人道路を撮るー  「不可視化」されて消えてしまった囚人道路を写真として残すことは、今はもうできない。残されたかすかな痕跡を追ってみても、かつては存在していたものの断片を可視化できるだけである。それはすべてが終わってしまっていて表現されえないことで、ここで作家ができることは、かつてあったあるがままの囚人道路を裏切らないために、何も表現しないことなのかもしれない。 何処にでもある北海道の雑木林の中に、「不可視化」された不在の「囚人道路」を「見る」。ここでこの「見る」ということ...

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Roadside Lights I

作曲家の武満徹がジョン・ケージの音楽を指してこのような言葉を残している“黙示は未分である、それだからそれは生き物だ。それは、さまざまの貌をしている。そして、読み取る人によってさまざまに現る”。この言葉を私の写真作品に置き換えてみると、具象としての“自販機のある風景”からさまざまな観覧者の解釈を経て、抽象へと向かい、未分としての写真の因習から自由な世界を獲得することを期待するものである。 “自販機のある風景”との出会いは私が日本最北の街、稚内で暮らしていたことから始まる。最北の冬は過酷で雪が下から降っ...

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Being There

自販機は日本じゅう至る所にある。 都市はもちろん、誰が買うのと思えるような山間部や最果ての岬にも自販機はある。なにより特別特定の場所というのではなく、なんでもない道端から個人の家の軒先にまで自販機は置かれている。もはや自販機は日本という国を象徴する最もありふれた風景のひとつといっても過言ではないだろう。しかし、それが日本独特のものであることに気づいている人は意外と少ないのではないだろうか。 とはいえ、2011年の東日本大震災の時、原発事故が起こり、節電が叫ばれ、無駄なものとして一番先に挙げられたの...

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Railroad crossing

ある時、私は、閉ざした踏切の前に立ち、ふと考えた。 踏切は、どこにでもあるありふれた風景だ。そして、誰もが一度は立ち止まったことのある場所なのだ。 遮断機が降り、警告音が鳴る。 信号さえない最北のまちで、そこで唯一、私が、立ち止まったのも、踏切であった。 幼い日の思い出と、どこかのんびりした踏切の音。そのイメージは、今も記憶の中に強く残っている。 鉄道は旅を思いおこさせ、人生をも連想させる。 私たちは、長い人生の中で、幾度となく立ち止まっては、過ぎた日々を振り返えり、立ち止まっては、未来に思いを巡...

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Identity as Uygur

Where is the identity as Uygur heading to? This question always comes up to my mind when I visit Xinjiang Uygur Autonomous Region where everything is rapidly changing since my first visit. In elementary schools, Uygur children are now studying in Chinese, not in their own language anymore. They all sing Chinese songs and use Chinese textbooks. This area was once known as a frontier but now there are many streets lined with buildings. Old town becomes a tourist spot. To think about this situat...

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