Prisoners’ Road-囚人道路
Prisoners’ Road
―不可視化された不在の囚人道路を撮るー
「不可視化」されて消えてしまった囚人道路を写真として残すことは、今はもうできない。残されたかすかな痕跡を追ってみても、かつては存在していたものの断片を可視化できるだけである。それはすべてが終わってしまっていて表現されえないことで、ここで作家ができることは、かつてあったあるがままの囚人道路を裏切らないために、何も表現しないことなのかもしれない。
何処にでもある北海道の雑木林の中に、「不可視化」された不在の「囚人道路」を「見る」。ここでこの「見る」ということは、必ずしも視覚的に「見る」ことを指すものではない。さらに緯度経度を指す数字のキャンプションは、かつてここで何かがあったことを指し示してはいるが、直接何かを説明するものでもない。この条件で観賞者ができることは、ただ立ち止まり考えることだけである。それは写真を「見る」で終わるのではなく、写真を「見て」考えることに導かれるとも言える。
北海道には開拓の初期に当たる明治19年から当時の道路総延長の55%にあたる663Kmが囚人たちによって作られたという史実がある。当時の囚人には今では犯罪者にならないような思想犯も含まれ、西南戦争などもあり明治政府の統治能力の欠如などから囚人が急増したとされる。このようなことから収容施設増設と北海道開拓のため、この時期道内に集治監が次々と作られたとされる。その中でも取材を重ねた明治24 年の網走から北見峠までの通称北見道路の建設では、163Km の区間を囚人の人力のみで、僅か九ヶ月間の突貫工事で開削したとされる。そしてこの工事に携わった1,150 人あまりの囚人のうち、230 人あまりが亡くなったということである。しかし今その当時の状況を想起させるものは一枚の後に撮られた間接的な写真と、数個の囚人たちに使用された鎖のみになっている。このような条件の中で、囚人道路の敷設された地域の住民たちは、今でも”例え囚人であってもこの地を「開拓」した人々を敬う”ということで慰霊碑に思いをはせる。この「開拓」という言葉にはここに住む人々のアイデンティティーが関わってくると考える。明治の「北海道開拓」には関わったのは主に領地と縁を失って移住してきた士族集団や、郷里での貧窮にあえぎ、広い土地への憧れや生存のための最大要件である食糧確保のためにやってきた農民たちであった。さらに囚人道路の沿線である遠軽町周辺には、キリスト教の信仰によって北辺の地にラストフロンティアを作ろうとした人たちがいた。しかしいずれも「開拓」には熊笹と巨木根がこの「開拓」を妨げ、風雪などの自然がさらに困難さを増幅させたことは、これに関わった人々の共通の体験としての普遍的な経験・記憶になったであろう。
私の祖父も明治11 年に尾張徳川家の当時の藩主徳川慶勝について愛知県東春日井郡から道南の八雲に入植した。後に現在の稚内市となる浜勇知に入植し、農業を営んでした。私の子供の頃、祖父の家にはまだ電気が来ていなかった。さらに断熱材などまだない家の中では、朝になると布団の襟元には自分の息からの霜が付いていたのを記憶している。それでも開拓当時よりははるかにましだったようで、幸せを感じるのはそれよりもっと不幸があるからで、その様な意味から開拓当時から比べると今は幸せなんだと言っていたような記憶がある。
このような「開拓」という共通の体験からくるアイデンティティーがこの地に住む人々に共通していると考える。それは私自身、自分が何者であるかという証にもなっており、さらに、この「開拓」から来るアイデンティティーは「感謝」と「鎮魂」をかつての囚人道路を建設した囚人たちにも届けられ、共通の普遍的体験としてこの地の人々の記憶に残されていると考える。
そして今回この不可視かされた「感謝」と「鎮魂」という声を作品として土に記憶させ、その土をレジンなどの支持体に混ぜる。さらにこの土を混ぜたレジンの支持体に、この沿線で収集したファウンド・フォトをUV プリントする。ファウンド・フォトは誰が何処でいつ撮ったか分からない匿名の写真である。かつてロラン・バルトは著書の中で「制度としての作者は死んだ」と唱えた。その意味としては多様な読み方で解釈する「読者の誕生」であり、すなわち匿名性からファウンド・フォトでは多様な読み方ができるということで、観賞者によって作品が成立するということを意味する。
また別の試みとして、生成AI で描いた画像を現在残っている囚人道路に投影して、それを撮影し作品とする。それは「不可視化」された不在の「囚人道路」を撮るということになる。ここでこのAI により生成された画像というのは、沿線住民の声を元に生成したものである。生成AI で画像を作成する場合、テキストがプロンプト(指示文)として入力される。この沿線住民たちの声をプロンプトとして、そこから立ち上がる画像には「感謝」と「鎮魂」が概念として込められていると考える。そしてその画像は囚人道路に投影され、「感謝」と「鎮魂」の概念は囚人道路の土に転写されていく。
プルーストは「記憶」は常に捏造されるものであるとした。しかし写真からくる「過去」はどうだろうか。確かに表層としての写真の真実性は失効している。しかし、表層の写真から導かれる「感謝」と「鎮魂」という概念は、受け取る観覧者に依拠するものである。すなわち、観覧者がどのように自分の記憶や体験と結びつけ、自分のものとするかである。
北海道の「開拓」には国策としての拓殖政策が有り、それは先住民であるアイヌにとっては「侵略」となり、開拓移住者自身にその様な意図がなかったとしても同化政策によるアイヌ文化の蔑視や破壊という負の側面をも持つ。その様な負の歴史をも加味し、自身のアイデンティティーをこの土地に求めた場合、苦難に耐え抜いた先人たちの志から学ぶものがある。それは退路を断たれ希望と挫折の中で原始林の開墾を続けていった開拓史には、困難な開墾を一緒に続けたという絆から、今失いかけた心の豊かさを感じるからである。それは現代社会がゲマインシャフト(共同社会)からゲゼルシャフト(利益社会)へという流れがあり、そこで出来た個人主義を支えてきたのは、地縁血縁から切り離され、都市化させられた彷徨う個人の群れだということが出来る。ここから導かれるのは個人のアイデンティティーの喪失で、かつての北海道の「開拓」とそれに伴う「土地(トポス)」の開拓者精神に関わる精神性からは、今失われかけた共通の体験を通した豊かなアイデンティティーの居場所を見ることが出来る。