―不可視化された不在の囚人道路を撮るー

何処にでもある北海道の雑木林の中に、不可視化された不在の囚人道路を見る。ここでこの見るということは、必ずしも視覚的に見ることを指すものではない。さらに緯度経度を指す数字のキャンプションは、かつてここで何かがあったことを指し示してはいるが、直接何かを説明するものでもない。この条件で観賞者が出来ることは、ただ立ち止まり考えることだけである。それはただ立ち止まり、かつて旅行をした時、車窓から見た景色かもしれないし、子供の時遊んだ野山での記憶を辿ることかもしれない。何の説明もない写真を見て観賞者に出来ることは限られている。それは写真を見るで終わるのではなく、写真を見て考えことに導かれるとも言える。
ただここで大事なのは、観賞者の意識が、写真として写っている雑木林から外に行かないことである。それは雑木林の写真を見て都会での生活を思い描くことは出来ない、あくまでもここでは写真として写っている雑木林の範疇に意識は止まると考える。それは写真としての強度であり、作品として自立できるという意味になる。
さらに土に囚人道路沿線の人々の声を記憶させる。それはたとえ囚人であってもこの地を開拓した人々への感謝であり鎮魂の気持ちとなりそれを土は記憶する。それは写真から遷移された土に沁み込んでいるであろう沿線住民の声を、可視化する試みでもある。北海道という土地は、アイヌなどの先住民がすでにいたとはいえ、明治の初めから本州からの移住者によって開拓されたという歴史がある。その開拓と言うことから来るアイデンティティーはこの地に住む人々にとって、かつては共有できたものであった。しかしそのアイデンティティーも時間の経過とともに意識が薄くなって来ていると考える。そのような中でも、現在この囚人道路の沿線に住む人々にとっては、この開拓というアイデンティティーが、囚人たちに対して感謝と鎮魂として今も残っていると考える。この感謝と鎮魂という声を、現在の囚人道路から採取した土に記憶させ、その土をレジンなどの支持体に混ぜる。さらにこの土を混ぜたレジンの支持体に、この沿線で収集したファウンドフォトをUVプリントする。ファウンドフォトは誰が何処でいつ撮ったかわからない匿名の写真である。かつてロラン・バルトは著書の中で”制度としての作者は死んだ”と唱えた。その意味としては多様な読み方で解釈する読者の誕生であり、すなわち匿名性からファウンドフォトでは多様な読み方の出来るこということで、観賞者によって作品が成立するということを意味する。
また別の試みとして生成AIで描いた画像を現在残っている囚人道路に投影して、それを撮影し作品とする。それは不可視化された不在の囚人道路を撮るということになる。ここでこのAIにより生成された画像というのは、沿線住民の声を元に生成したものである。生成AIで画像を作成する場合、テキストがプロンプト(指示文)として入力される。この沿線住民たちの声をプロンプトとして、そしてそこから立ち上がる画像には感謝と鎮魂が概念として込められていると考える。そしてその画像は囚人道路にAI画像を投影した写真から、感謝と鎮魂の概念は囚人道路の土に遷移されて行く。
プルーストは記憶は常に捏造されるものであるとした。しかし写真からくる過去はどうだろうか。確かに表象としての写真の真実性は失効している。しかし、表象の写真から導かれる感謝と鎮魂という概念は、受け取る観覧者に依拠するものである。すなわち、観覧者がどのように自分の記憶や体験と結びつけ、自分のものとするかである。